ヴィパッサナー
サヤジ・ウ・バ・キンの伝統のもと
瞑想
S.N.ゴエンカの指導による
第三日目
八聖道:パンニャー-借り物の知恵、理屈による知恵、経験による智慧-カラーパの四つの要素-3つの性質:無常、幻想でしかない自我、苦悩-「うわべ」の現実を貫く
3日目が終わりました。明日の午後には、八聖道の第3の領域であるパンニャー 、智慧に入ります。智慧がなくては、この道は完成しません。
この道は、シーラ、他を傷つける行いを慎むという道徳律の修行からはじまります。しかし、たとえ表向きはシーラを守り、ほかの人や生きものを傷つけなくとも、心に汚れを生むかぎり、自分は傷つきます。そのためにサマーデイ、心の制御を学び、心に生まれる汚れを抑えます。ただし汚れを抑えることはそれを浄化することではありません。潜在意識下で汚れは増殖し、心を蝕みます。そのためにダンマの3つ目のステップ、パンニャーを育みます。汚れが増えるままに放っておくのではなく、かと言って抑え付けるのでもなく、それを表面に浮かび上がらせ、浄化する。心の汚れが消え、清らかになると自然に他を傷つけるような行為はできなくなります。清らかな心は、善意と慈しみに満ちているからです。同様に、自分を傷つけることもなくなります。 人生は健やかな、幸せなものとなります。一歩一歩が次の一歩を導きます。シーラはサマーデイ、正しい集中を育み、サマーデイはパンニャー、智慧による心の浄化を助け、パンニャーはニッバーナ、すべての汚れからの解放、完全な解脱へと導き ます。
パンニャーの領域には、八聖道のうち、さらに二つの部分が組み込まれます。
サンマー・サンカッパ、正しい思考。かならずしも思考が無にならなければ智慧は生まれない、というわけではありません。思いがあってもよいのです。ただ、思考の仕方が変わってゆくのです。呼吸に意識を集中することによって、心の表面にある汚れが消え去りはじめま す。それにつれて、渇望や嫌悪の思い、あるいは妄想がやみ、健全な思い、ダンマ についての、解脱の道についての思いが生まれてきます。
サンマー・ディッテイ、正しい理解。見かけにとらわれることなく、真実をありのままに見ること、知ること、理解すること、これが本当のパンニャー智慧です。
パンニャー、智慧には、3つの成長段階があります。 はじめは、スタ・マヤー・パンニャーです。ほかの人が話しているのを聞いたり、本を読んだりして得る一般的な知恵、知識です。これは借り物の知恵(知識)ですが、 正しい方向へ人を向かわせるので大きな助けになります。が、これだけでは解脱に至ることはできません。盲目的信仰や、あるいは信じなければ地獄にいくとの恐れ、逆に信じれば極楽にいけるという欲から、受け入れているに過ぎないこともあるでしょう。いずれにせよ自分自身の智慧ではないのです。
「借り物の知恵」は、それが次の段階、チンター・マヤー・パンニャー、知性による理解へと導いてこそ役に立ちます。聞いたり読んだりしたことが道理にかなっているか、 実際の生活に生かされるものか、恩恵を与えてくれるものかどうかを考察して、それを受け入れる。これは重要ですが、それだけが最終ゴールだと思い違える時、危険も生みます。知識を増すことによって、人はえてして自分は賢い人間だと思い込んでしまう。そうなると、我を大きくするだけですから、解放は遠のいてしまいます。
この知的理解も次の段階のバーヴァナー・マヤー・パンニャー、へと導いてこそ、その使命を果たします。体験をとおして自分自身の内に育む知恵。これこそが本当の智慧です。借り物の智恵も知的理解による智恵も、インスピレーションを与え、次の段階への導き手となってくれるという点ではとても有効です。けれども、解脱に至るためには、自分自身の経験による本物の智慧がなければなりません。
この3段階の、あるいは3種の智慧について、1つ例をあげましょう。 病気の人が、かかりつけの医院へ行きます。医者が薬の処方箋を書いてくれます。 その人は医者をとても信頼しているので、家に帰ると処方箋の言葉を毎日唱えます。これがスタ・マヤー・パンニャーです。つぎに、それだけでは満足できずに、医者に処方箋の説明を求めます。医者はていねいに説明します。なぜその薬が必要なのか、それがどのように作用するのかを。それを聞いて、その人は理解します。チンター・マヤー・パンニャーです。 最後に、患者は薬を飲みます。病は癒えます。薬を飲んではじめて、病が癒えるという恩恵を受けるのが、3段階めのバーヴァナー・マヤー・パンニャーです。
みなさんはこのコースに、自分で薬を飲むためにやってきました。自分自身の智慧を育むためにやってきました。そのためには真実を理解するために自身で体験しなければなりません。 ものごとの表向きとその本質とは、まったく異なっています。そこに混乱が起こります。その混乱をなくすためには、体験にもとづいた智慧を育てる以外に方法はありません。体の枠組みの外に起こっていることについては、単に知的に理解しているにすぎないのです。体の枠組みの中で、粗雑なものから、細やかなレベルの真実を探ることによってすべての錯覚や束縛から自由になれるのです。
宇宙全体が常に変化していることを、だれもが知っています。が、このことを、 ただ頭の中で理解しても役に立ちません。経験が伴わなければ無意味です。たとえば、身近な、愛しい人の死というような精神的にショックなできごとにあうと、無常という厳しい現実に直面することになるでしょう。そして、物を蓄えたり、ほかの人といさかいをすることがいかに空しいものかを知るでしょう。けれども、すぐにいつものエゴイズムが頭を持ちあげてきて、さきほどの智恵をどこかへ押しやってしまいます。なぜならば、それは、自分の経験をとおして得た智慧ではないからです。無常という真実を、自分自身の内に経験してはいないからです。
こと・もの、すべてがはかなく移り変わっています。一瞬一瞬、生まれては消え去っています。アニッチャ(無常)です。けれども、それがあまりにもはやく、 とぎれることなく起こっているものですから、あたかも常であるかのように、移り変わっていないかのように、錯覚してしまうのです。 ろうそくの炎も電気の灯も、常に変化しています。ろうそくの炎の場合は肉眼で見ることができますから、錯覚しないですむでしょう。しかし、電灯の場合は、変化の様子が大変はやいため、肉眼でとらえることはできません。錯覚からめざめることは難しいでしょう。あるいは、「ゆく河の流れはたえずして、しかも、もとの水にあらず」というがごとくに、水の流れの変化を見ることはやさしいでしょう。しかし、そこで水浴びをしている人も、一瞬一瞬変化している、ということに気づける人はどれほどいるでしょう。
錯覚から抜け出すためのただ1つの方法は、自分の内側を探ることです。こころ と体の結びつきを、ありのままに体験することです。これが シッダッタ・ゴータマ が行い、ブッダとなった修行です。 シッダッタは、先入観をすべて捨てて、みずからを調べつくしました。表面からはじめて、最も奥深くま で調べつくしました。その結果、物質である体は、微細な粒子から成っていることをつきとめました。もうそれ以上は分けることができないという、物質の最小の構成単位をつきとめたのです。それはパーリ語でアッタカラーパという素粒子で、物質を形成する土、水、火、空気の四つの要素と、それぞれの持つ性質があります。シッダッタは、この物質の最小の構成単位が、毎秒何兆回を超える猛烈な速さで生まれては消え去っている、ということをもつきとめました。この物質世界には、じつのところ、固体と呼ぶものはないということ。固体にみえていても、実は燃焼と振動にほかならないという事実です。
近代の科学者は、 実験器具を使って、シッダッタが発見した、物質世界が猛スピードで生まれては消える素粒子で構成されていることを確認することができました。が、彼らはシッダッタのようにブッダになった訳ではありません。苦悩から解放された訳ではありません。彼らの行ったことは、知的作業にすぎないからです。シッダッタのように、真実を、自身の内に悟ったものではないからです。人は、自分が永遠なものではないということを、体験をとおして悟ってはじめて、苦悩から抜け出す一歩が踏み出せるのです。
アニッチャ(無常)の理解が、体験を通して深まるにつれ、次の智慧が現れてきます。それは、アナッター(無我)という智慧です。「私」も、「私のもの」もないということ。体と心の構造において、一瞬たりともとどまっているものはありません。永遠不滅の自我や魂と呼べるものはないのです。私のものと呼べるものがあるのなら、それを所有できるはずです。それを支配できるはずです。けれども、そのようなものはありません。人はだれも、自分の体さえも支配することができないのです。それは、私たちがどう願おうと、たえず変化し、衰えて行きます。
やがて第3の智慧が現れてきます。それはドウッ カ(苦悩)という智慧です。たえず変化していて支配することのできないものを、つかまえていよう、はなさないようにしようとするとき、内なる苦しみが始まります。ふつう、苦悩は、不快な感覚を伴う体験をするとき味わうものと思われていま す。しかし、快い感覚を伴う体験をするときも、同じく無常であるそれに執着をするならば、やはり苦しみは生まれます。うつろい易いものへの執着は苦悩に終わります。
アニッチャ、アナッター、ドゥッカの理解が、体験をとおして深くなるにつれて、日々の生活にもその恩恵は現れてくるでしょう。自分自身を、表面から奥深くへと探索する方法を知ったならば、外の世界でも、 それを応用することができるはずです。表向きに惑わされることなく、究極の真実を見抜くことができるようになります。錯覚や妄想に悩むことはなくなるのです。 健全で幸福な人生を送ることができるようになります。
錯覚は、目に見え、実体があり、統合された現実によって生まれます。たとえば、体の美がそうです。どの一部を取り出しても、それは心惹かれるものでも、美しいもの、アシュバではありません。つまり、体の美しさは見せかけのもので、目に見える現実であって、究極の真実ではないのです。
身体的美しさが表面的なものにすぎないことを理解したからといって、他の人を嫌悪しなければならないというものではありません。智慧が育つにつれて、心は自然に調和がとれてきます。執着がなくなります。清らかになって行きます。他の人への善意、思いやりに満ちてきます。自分自身のうちに真実を体験することで、幻想、渇望、嫌悪から解放され、平和で幸福な生活をおくることができるようになります。
明日の午後、みなさんはヴィパッサナーの修行に入ります。いよいよパンニャー智慧の領域に足を踏み出すのです。けれども、そのときすぐに、体中に微粒子が生じては消え去るのを体験できるなどと期待しないでください。だれでもはじめは、大まかで粗い真実から体験する ものです。心の平静さを保ちながら、少しずつ、より細かな真実を探ってゆきます。やがては、心と体の究極の真実を体験するでしょう。そしていつか、精神と物質を超えた絶対的な真実を体験する時が来るでしょう。
このゴールに至るには、自分の足で歩いて行かなければなりません。修行の土台で あるシーラをしっかり守りなさい。そうしてアーナーパーナの修行を明日の午後3時まで続けます。鼻孔の部分に現れる真実を観察しつづけなさい。心を鋭くとぎすませつづけなさい。明日、ヴィパッサナーに入るときに、より深く探り、より多くの内なる汚れを取り除くことができるように。忍耐強く、懸命に、修行をつづけなさい。自分自身のために。自分自身の解放のために。
みなさんがたすべてが、解放の道の第一歩を踏み出し、成功をおさめられますように。
生きとし生けるものが幸せでありますように。